仙台が杜の都と呼ばれる理由

杜の都仙台は古くから東北地方最大のの中心都市で明治時代に第二高等中学校(明治20年4月設立)や東北帝国大学(明治40年設立)等の当時の日本を代表する最高の教育機関が設置され、「学都」としての地位を確立し、「軍都」として第二師団(明治21年5月設立)の本部も置かれ、日本の主要都市のひとつとして発展していきました。

戦後も高度成長期には多くの企業が仙台に支店を開設して進出し、札幌や広島、福岡と並ぶ支店経済都市として発展していき、1989年4月には全国で11番目の政令指定都市に移行しました。

杜の都のルーツ~伊達政宗による城下町建設

仙台はあの「独眼竜政宗」で名を馳せた仙台藩祖伊達政宗によって築かれた仙台藩の城下町としても有名な街でいまの仙台城は1601年(慶長6年)に国分氏の居城であった千代城を大幅改修したもので伊達政宗は居城を岩出山城から仙台城に移し、62万石を擁する仙台藩の城下町を築きあげました。

伊達政宗による仙台開府以前の仙台平野は「宮城野」とも呼ばれていたように防風林、防雪林は殆どなく、そのため風雪を防ぐために防風林、防雪林、防火林などの積極的な植林奨励策が行われ、スギやマツの常緑樹や落葉樹でも樹勢の良いとされるカラマツなどが植林されていきました。

また、仙台は比較的武士階級の居住している割合が高い城下町だったため武家屋敷が多く、多くの武家屋敷には屋敷林が植えられていました。

このように伊達政宗の積極的な植林奨励策によって植えられた防風林、防雪林、防火林などの人工林や武家屋敷の屋敷林の緑に囲まれた街の豊かさ、美しさから杜の都という呼称が仙台市の愛称として定着するようになりました。(「杜」という字は「もり」と読むと防風林、防雪林、防火林、屋敷林などの人工林のことも意味し、「杜」の一字で仙台市をさすこともあります。)

いつから仙台は杜の都と呼ばれるようになったのか

文献で「杜の都」という表記は1916年(大正5年)発行の「仙台繁盛記」という富田広重という方の著作の中で初めて確認されています。

それ以前の1909年(明治42年)に仙台の表記を「森の都」と記している文献もあり、最初に仙台を「杜の都」という表記にした「繁盛記」も「杜の都」と「森の都」の両方が併用されています。

その後、仙台市は1970年(昭和45年)9月22日に制定された仙台市の「公害市民憲章」の冒頭に「われわれ市民は美しい郷土杜の都仙台を愛し、永遠の誇りとして・・」と記載して以来、「杜の都仙台」を公文書での統一表記として使用しています。

杜の都の象徴の変遷~屋敷林から並木道へ

第二次世界大戦の末期に仙台市も他の大都市同様アメリカ軍の空襲を受け、杜の都の象徴だった市街地の屋敷林は空襲による火災によって焼失してしまいました。

戦後、戦災によって屋敷林を焼失した仙台の市街地では、戦後の復興期に建設された街路への植樹が段階的に行われるようになり、青葉通りでは1950年(昭和25年)頃から1965年(昭和40年)頃までにケヤキの木が植樹されていきました。

杜の都仙台の象徴 定禅寺通りのケヤキ並木の画像
新緑の定禅寺通り(出典:http://midekesain.com/)

その後、1976年の市電の廃止によって市電の通っていた道路の空きスペースに植樹が行われ、また1978年の宮城県沖地震後に防災対策として従来のブロック塀から生垣への作り変えが推進され、市の中心部から郊外へと植樹による緑化が進められていきました。

このように戦災や戦後の復興、高度成長期における新たな都市計画、道路計画の過程において、スギ、マツ、カラマツなどの常緑樹の屋敷林は失われていき、それに代わって杜の都の象徴は、定禅寺通りに代表されるケヤキの落葉樹の並木道や緑化公園などへと変遷していきました。